シングルセル・マルチオミクス(single-cell multiomics/scRNA-seq と scATAC-seq の統合解析)は、1種類のデータだけでは見えなかった細胞の姿を、2つの層を重ねて捉えるアプローチです。RNA は「いま何が働いているか(遺伝子発現)」を、ATAC は「どこが開いていて働ける状態か(クロマチンアクセシビリティ)」を映します。この2つを統合すると、遺伝子がどう制御されているかという因果の一歩手前まで迫れます。本記事はその全体像を示す地図です。
1. なぜ RNA と ATAC を一緒に見るのか
細胞の状態は、2つの異なる層で決まります。片方だけでは片手落ちになる、というのが統合の出発点です。
RNA(発現)=その細胞で実際に転写されている遺伝子。「結果」に近い層です。
ATAC(アクセシビリティ)=ゲノム上で物理的に開いている領域。転写因子が結合でき、遺伝子が「働ける状態」にあるかを示す「原因」に近い層です。ATAC-seq は開いたクロマチンを検出する実験手法です(Buenrostro et al., Nat. Methods, 2013)。
発現だけを見ても「なぜその遺伝子がオンなのか」は分かりません。逆にアクセシビリティだけを見ても「開いている領域が実際に使われているか」は分かりません。両方を同じ細胞軸で並べて初めて、どの制御領域が・どの遺伝子の発現を駆動しているかという制御の構造に手が届きます。これがマルチオミクス統合の狙いであり、このシリーズの最終的な到達点である GRN 推論(第4節)につながります。
本記事は全体像に徹します。RNA・ATAC それぞれの前処理は、次回以降の「マルチオミクス前処理の全体像」とスポーク記事で、このシリーズ内で一通り説明します。さらに深く掘り下げたいときは、scRNA-seq は scRNA-seq 前処理の全体像、scATAC-seq は scATAC-seq 解析の全体像 が詳しいです。
2. 統合の2つの型 ─ ペアと非ペア
マルチオミクス統合は、データの取り方で根本的に2種類(ペア=vertical/非ペア=diagonal)に分かれます(Argelaguet et al., Nat. Biotechnol., 2021)。この区別が、手元のデータにどのツールを使うべきかを決める最も重要な軸です。まず図で全体をつかみます。
ペア(paired/vertical)は、10x Multiome のように同一の1細胞から RNA と ATAC を同時に計測したデータです。どの RNA とどの ATAC が同じ細胞由来かが最初から分かっているため、そのまま同一細胞として統合できます。
非ペア(unpaired/diagonal)は、別々の細胞集団で測った RNA データと ATAC データです。同じ細胞の対応が不明なうえ、特徴の種類(RNA は遺伝子、ATAC はピーク)も噛み合いません。そこで、遺伝子とピークの対応関係を事前知識のグラフ(guidance graph)としてまとめ、それを頼りに両者を結びつけます。この guidance graph が非ペア統合の鍵になります。
これは 「どの遺伝子が、どのゲノム領域(ピーク)と対応するか」をまとめた事前知識のグラフです。例えば「ある遺伝子の近くにあるピークは、その遺伝子と関係が深い」といった関係を最初に与えておきます。細胞ごとの対応が分からなくても、特徴どうしをこのグラフで結ぶことで、RNA と ATAC を同じ空間に対応づけられます。
この二分法は暗記すべき負担ではなく、この分野を理解するための地図です。自分の手元のデータがペアか非ペアかを見分けられれば、どのツールを使うべきかが自ずと決まります。
3. ペアと非ペアは同じゴールに合流する
入口(データの取り方)は違っても、目指すゴールと数学的な発想は共通です。ここを押さえると、シリーズ全体が一本につながって見えます。共通点は3つあります。
(1) ゴールが同じ:どちらも RNA と ATAC を共通の潜在空間(両モダリティを同じ座標で表す低次元空間)に乗せることを目指します。
(2) 橋渡しの問題が同じ:どちらも「RNA の特徴と ATAC の特徴をどう結ぶか」を解いています。違いは、同一細胞という対応があるか(ペア)/ないか(非ペア)だけです。
(3) 土台が同じ:MultiVI も scGLUE も、VAE(変分オートエンコーダ)という共通の深層学習の枠組みの上に立っています。VAE は、データを一度低次元の潜在表現に圧縮し、そこから元を復元するよう学習することで、本質的な構造を捉える手法です。
つまり、入口で2つに分かれた道は、統合された潜在空間で1つに合流します。言い換えると、ペアと非ペアの違いが効いてくるのは統合の段階までで、統合された潜在空間から先の解析(アノテーション、GRN 推論、その先の応用)は、経路によらず共通の手続きになります。
なお、同じペアデータ向けでも Seurat の WNN は VAE ではなく重み付き近傍グラフでモダリティを束ねる別系統の手法で、生成モデルの潜在空間そのものは作りません(第5節)。ここでの「共通の潜在空間に合流」は、深層生成モデル(MultiVI・scGLUE)に共通する発想を指しています。
4. 統合の先 ─ 遺伝子制御ネットワーク(GRN)
統合はゴールではなく出発点です。統合された空間から引き出したい最終的な果実が、遺伝子制御ネットワーク(GRN)推論です。
「どの転写因子(TF)が・どの制御領域(エンハンサー)を介して・どの遺伝子を制御するか」という関係の網です。転写因子とは、ゲノム上の特定の配列に結合して遺伝子のオン/オフを操るタンパク質です。エンハンサーとは、遺伝子から離れた位置にありながらその発現を強める制御領域です。
GRN 推論こそ、マルチオミクスが最も力を発揮する場面です。理由は明快で、GRN を組み立てる材料が RNA と ATAC の2つのモダリティに分かれて存在し、とくにエンハンサーの情報は ATAC でしか得られないからです。転写因子と標的遺伝子の発現は RNA が、その間をつなぐ制御領域(エンハンサー)が開いているかは ATAC が教えてくれます。片方のデータだけでは、この関係網を組み立てる材料が足りません。RNA と ATAC を統合して初めて、TF →エンハンサー→遺伝子という制御の鎖を推定できます。
scRNA-seq 単独でも転写因子活性の推定は可能で、それは scRNA-seq の GRN・転写因子活性 で扱っています。マルチオミクスでは、ATAC が加わることで「どのエンハンサーを介するか」という制御領域の情報まで踏み込める点が本質的な違いです。
ここまでの流れ(入口→統合→GRN→下流)を1枚の地図にまとめます。
5. シリーズの記事構成
記事は、前処理でデータを整えるところから始まり、統合で共通の潜在空間をつくり、GRN を推論し、最後にその GRN を使って生物学的な問いに答える、という順で進みます。以下は各ブロックの一覧です(順次公開)。
⓪ 前処理・基礎 ─ データを統合に載せる準備
- マルチオミクス前処理の全体像 ─ RNA・ATAC を統合に載せるまで
- マルチオミクスのデータ構造 ─ AnnData から MuData / muon へ
- scRNA-seq 側の前処理 ─ 統合に向けた QC・正規化・次元削減
- scATAC-seq 側の前処理 ─ 統合に向けた QC・TF-IDF / LSI
- ペアデータの合同 QC ─ 10x Multiome で両モダリティをそろえる(近日公開)
このブロックで、RNA・ATAC それぞれの基本的な前処理はこのシリーズ内で一通り説明します。前提として他シリーズを先に読む必要はありません。さらに詳しく知りたいときは、scRNA-seq 前処理の全体像・scATAC-seq 解析の全体像 が各テーマを深掘りしています。
① 統合スポーク ─ 共通の潜在空間をつくる
ペアデータなら MultiVI がまず既定(Ashuach et al., Nat. Methods, 2023)。非ペアデータなら scGLUE(Cao & Gao, Nat. Biotechnol., 2022)。R 環境で完結させたいペア Multiome なら WNN(Hao et al., Cell, 2021)。手元のデータがペアか非ペアかで、まず二択が決まります。
② GRN 推論スポーク ─ 制御ネットワークを組み立てる
- SCENIC+ でエンハンサー駆動 GRN(Python・本命)
- CellOracle で in silico 摂動(TFノックアウトのシミュレーション)
- Dictys で動的 GRN(分化に沿って変化するネットワーク)
- LINGER で atlas 規模の事前知識を使う GRN
まず SCENIC+ でエンハンサー駆動の GRN を組む(Bravo González-Blas et al., Nat. Methods, 2023)。転写因子をノックアウトしたら細胞状態がどう変わるかをシミュレーションしたいなら CellOracle(Kamimoto et al., Nature, 2023)。分化のような連続過程に沿って変化する GRNを追うなら Dictys(Wang et al., Nat. Methods, 2023)。データがスパースで大規模な事前知識で精度を底上げしたいなら LINGER(Yuan & Duren, Nat. Biotechnol., 2025)。
③ 下流・発展 ─ GRN を使って問いに答える
GRN を組み立てたあとが、本当の意味での解析の始まりです。摂動シミュレーションによる細胞運命の予測、細胞間相互作用との接続、空間トランスクリプトミクスとの統合など、発展的な下流解析へ広がります。このブロックは統合・GRN スポークが揃ってから順次追加します。
6. 前処理・基礎はこのシリーズで扱う(さらに深めるには)
このシリーズは前処理の基礎から扱うので、RNA・ATAC の単独解析を先に済ませておく必要はありません。各回で必要な前処理はそのつど説明します。ただし各テーマをもっと深く知りたくなったら、以下の各シリーズが詳しく解説しています。このシリーズで基礎 → 各シリーズで深掘り、という使い方ができます。
| 深めたいこと | 詳しい解説(別シリーズ) | 扱う内容 |
|---|---|---|
| scRNA-seq の前処理 | scRNA-seq 前処理の全体像 | QC・正規化・統合・クラスタリング |
| データ構造(AnnData) | AnnData のデータ構造 | 全解析で扱うデータ形式の基礎 |
| 深層生成モデルの地図 | scvi-tools の全体像 | MultiVI の土台となる scvi-tools 系 |
| scATAC-seq の前処理 | scATAC-seq 解析の全体像 | ATAC 特有の QC・次元削減・アノテーション |
| scATAC-seq の下流 | scATAC-seq 下流解析の全体像 | co-accessibility など ATAC 単独の下流 |
ATAC 単独で完結する co-accessibility(一緒に開くピークを繋ぐ) は scATAC シリーズ側にあります。本シリーズは RNA との統合が前提の GRN・統合を本拠地とし、ATAC 単独の下流はそちらへ送る、という住み分けです。両シリーズは相互にリンクしています。
まとめ
- マルチオミクス統合=RNA(何が働くか)と ATAC(どこが開いて働けるか)を重ね、制御の構造に迫る。
- 統合はペア(同一細胞から同時計測)/非ペア(別々に測定し guidance graph で橋渡し)の2型。これが最重要の軸。
- 2つの型は入口が違うだけで、共通の潜在空間に合流し、そこから先は共通の手続きになる(深層生成モデルの土台はどちらも VAE)。
- 統合の先の果実が GRN 推論。TF →エンハンサー→遺伝子のうち、エンハンサー層は ATAC でしか見えないため、RNA と ATAC の統合が本質的に効く。
- シリーズは前処理 → 統合 → GRN → 下流・発展の順。基礎はこのシリーズで扱い、さらに詳しくは各シリーズへリンクする。
関連記事
- 📖 scRNA-seq 前処理の全体像 … RNA 側をさらに深く
- 📖 scATAC-seq 解析の全体像 … ATAC 側をさらに深く
- 📖 scvi-tools の全体像 … MultiVI の土台
- 📖 scRNA-seq の GRN・転写因子活性 … RNA 単独の GRN(比較対象)
- 📖 scATAC-seq 下流解析の全体像 … ATAC 単独の下流(相互リンク)
参考文献
- Buenrostro, J. D., Giresi, P. G., Zaba, L. C., Chang, H. Y., & Greenleaf, W. J. (2013). Transposition of native chromatin for fast and sensitive epigenomic profiling of open chromatin, DNA-binding proteins and nucleosome position. Nature Methods, 10(12), 1213–1218. doi:10.1038/nmeth.2688
- Argelaguet, R., Cuomo, A. S. E., Stegle, O., & Marioni, J. C. (2021). Computational principles and challenges in single-cell data integration. Nature Biotechnology, 39(10), 1202–1215. doi:10.1038/s41587-021-00895-7
- Ashuach, T., Gabitto, M. I., Koodli, R. V., et al. (2023). MultiVI: deep generative model for the integration of multimodal data. Nature Methods, 20(8), 1222–1231. doi:10.1038/s41592-023-01909-9
- Cao, Z.-J., & Gao, G. (2022). Multi-omics single-cell data integration and regulatory inference with graph-linked embedding. Nature Biotechnology, 40(10), 1458–1466. doi:10.1038/s41587-022-01284-4
- Hao, Y., Hao, S., Andersen-Nissen, E., et al. (2021). Integrated analysis of multimodal single-cell data. Cell, 184(13), 3573–3587. doi:10.1016/j.cell.2021.04.048
- Bravo González-Blas, C., De Winter, S., Hulselmans, G., et al. (2023). SCENIC+: single-cell multiomic inference of enhancers and gene regulatory networks. Nature Methods, 20(9), 1355–1367. doi:10.1038/s41592-023-01938-4
- Kamimoto, K., Stringa, B., Hoffmann, C. M., et al. (2023). Dissecting cell identity via network inference and in silico gene perturbation. Nature, 614, 742–751. doi:10.1038/s41586-022-05688-9
- Wang, L., Trasanidis, N., Wu, T., et al. (2023). Dictys: dynamic gene regulatory network dissects developmental continuum with single-cell multiomics. Nature Methods, 20, 1368–1378. doi:10.1038/s41592-023-01971-3
- Yuan, Q., & Duren, Z. (2025). Inferring gene regulatory networks from single-cell multiome data using atlas-scale external data. Nature Biotechnology, 43(2), 247–257. doi:10.1038/s41587-024-02182-7


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