シングルセル・マルチオミクス(single-cell multiomics/scRNA-seq と scATAC-seq の統合解析)は、統合の前に RNA と ATAC をそれぞれ整える前処理があって初めて成立します。前処理でつまずくと、その後の統合も GRN 推論も土台から崩れます。本記事は、RNA と ATAC を統合に載せるまでの前処理の全行程を1枚の地図として示すハブです。
1. なぜ「統合に向けた前処理」で捉え直すのか
RNA・ATAC それぞれに、単独解析でおなじみの前処理があります。ただしマルチオミクスでは、その前処理を「統合に載せる」という目的から捉え直す必要があります。単独解析のつもりで進めると、統合の段階で入力が合わない、という事態が起きます。肝は2つです。
(1) 共通の土台に載せる:ペア(同一細胞計測)なら RNA と ATAC を同じ細胞軸にそろえ、非ペア(別々に計測)なら比較できる特徴(遺伝子とピークの対応)に落とし込みます。
(2) 生カウントを壊さない:MultiVI などの深層生成モデルは生カウントを入力に取り、正規化・バッチ補正まで内部で行う設計です(Lopez et al., Nat. Methods, 2018/Ashuach et al., Nat. Methods, 2023)。古典的な log 正規化・スケーリング・PCA を先に済ませてしまうと、モデルに渡すべき生カウントが失われます。正規化した値とは別に、生カウントを残しておきます。
この2点を意識すると、前処理は「単独解析の前処理」ではなく「統合に向けた前処理」になります。各モダリティの具体的な手順は次回以降の各記事で扱い、ここでは全体の地図を示します。
2. 前処理の全体像(地図)
前処理は、RNA と ATAC の2本のトラックを並行して進め、最後に「統合できる状態」で合流させる、という流れです。まず地図で全体をつかみます。
RNA も ATAC も、大きな流れ(行列を作る → QC → ダブレット除去 → 特徴選択)は共通です。違うのは各ステップの中身と、ATAC 特有の指標です。以下、共通の土台(データ構造)から順に見ていきます。
3. 共通の土台 ─ データ構造(AnnData → MuData / muon)
2つのモダリティを扱うには、まずそれらを1つのオブジェクトにまとめる入れ物が要ります。単独解析で使う AnnData(1モダリティ用)の上位として、MuData / muon(複数モダリティ用)があります。
MuData は、RNA と ATAC をそれぞれ AnnData として保持しつつ、細胞の対応や共通のメタデータを束ねる階層コンテナです(Bredikhin et al., Genome Biol., 2022)。ペアなら同じ細胞が両モダリティに並び、非ペアなら別々の細胞集団を並べて保持できます。以降の QC・統合・下流は、この入れ物の上で進めます。
AnnData 自体の構造(.X/.obs/.var/.layers など)は AnnData のデータ構造 に、MuData への拡張は「マルチオミクスのデータ構造」で詳しく扱います。
4. RNA 側の前処理 ─ 統合に向けて
RNA 側は、単独の scRNA-seq 前処理とほぼ同じ流れです。QC(ミトコンドリア遺伝子の割合・検出遺伝子数・総カウント数で低品質細胞を除く)、ダブレット除去(Scrublet など;Wolock et al., Cell Syst., 2019)、HVG(高変動遺伝子)選択まで進めます(Scanpy;Wolf et al., Genome Biol., 2018)。
統合に MultiVI/scVI を使うなら、生カウントを保持したまま渡します。log 正規化・スケーリングした行列をそのまま入力すると、モデルが前提とする生カウントが失われます。正規化した値は可視化・マーカー確認に使い、モデル入力用の生カウントは別レイヤー(.layers)に残す、という二本立てにします。
各手順の詳細(QC 閾値の決め方、正規化の考え方)は scRNA-seq 前処理の全体像 が詳しく、統合向けの具体的な手順は「scRNA-seq 側の前処理」で扱います。
5. ATAC 側の前処理 ─ 統合に向けて
ATAC 側は、RNA とは指標が異なります。ATAC-seq は開いたクロマチンを検出する手法で(Buenrostro et al., Nat. Methods, 2013)、QC では総フラグメント数に加え、TSS(転写開始点)濃縮やヌクレオソーム由来のフラグメント長パターンを見ます。特徴はピーク(もしくはゲノムを等間隔で区切ったタイル)で表し、ダブレットは ATAC 専用の手法(AMULET;Thibodeau et al., Genome Biol., 2021)で除きます。
実装は Python の SnapATAC2(Zhang et al., Nat. Methods, 2024)、R の Signac(Stuart et al., Nat. Methods, 2021)や ArchR(Granja et al., Nat. Genet., 2021)が代表で、ピーク検出には MACS(Zhang et al., Genome Biol., 2008)を使います。次元削減は古典的には TF-IDF → LSI(Cusanovich et al., Science, 2015)ですが、深層生成モデル(PeakVI/MultiVI)に渡すなら、RNA と同じく生のピークカウントを保持します。
ATAC 単独の前処理・下流の詳細は scATAC-seq 解析の全体像 にまとまっています。統合向けの具体的な手順は「scATAC-seq 側の前処理」で扱います。
6. ペアと非ペアで前処理はどう変わるか
ここまでは RNA・ATAC を別々に見てきましたが、ペアか非ペアかで合流のさせ方が変わります。これはハブ記事で述べた最重要の軸(ペア/非ペア)が、前処理にも効いてくる場面です。
ペア(10x Multiome)は、同じ細胞から両モダリティを測るため、細胞バーコードが共有されます。ここで大切なのが合同 QCで、RNA と ATAC の両方で品質基準を満たした細胞だけを残すことで、両モダリティの細胞軸をきれいにそろえます。手順の詳細は「ペアデータの合同 QC」(近日公開)で扱います。
非ペアは、別々の実験でバーコードが共有されないため、各モダリティを独立に前処理します。その代わり、統合の段階で特徴どうしをリンクできる形(遺伝子とピークの対応)に整えておくことが要点で、この対応は非ペア統合(scGLUE など)の guidance graph に使われます。
7. 前処理のゴール ─ 「統合できる状態」
前処理のゴールは、次の「統合できる状態」に到達することです。ここに来たら、統合スポーク(ハブ記事の①ブロック)へ進みます。
共通の土台:ペアなら同じ細胞軸、非ペアなら比較できる特徴になっている。
QC 通過:低品質細胞・ダブレットを除いてある。
生カウント保持:深層生成モデル用に生カウントを残してある。
バッチ情報:サンプル・実験由来の情報を .obs に記録してある。
同じ入れ物:両モダリティが MuData など1つのコンテナに入っている。
この状態になれば、ペアなら MultiVI、非ペアなら scGLUE、というように統合ツールを選ぶだけです。次回以降は、この地図の各ステップを1本ずつ、具体的なコードとともに掘り下げます。
まとめ
- 前処理は「単独解析の前処理」ではなく「統合に向けた前処理」として捉え直す。肝は共通の土台と生カウント保持。
- 深層生成モデル(MultiVI/scVI)は生カウントを入力に取る。log 正規化・PCA を先に済ませず、生カウントを別に残す。
- 入れ物は MuData / muon。RNA と ATAC を1つのコンテナに束ね、以降の解析を進める。
- ペアは合同 QC で細胞軸をそろえ、非ペアは独立前処理+特徴のリンク準備。
- ゴールは「統合できる状態」。ここから統合スポークへ。
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- 📖 AnnData のデータ構造 … データ形式の基礎
- 📖 scvi-tools の全体像 … MultiVI の土台
参考文献
- Bredikhin, D., Kats, I., & Stegle, O. (2022). MUON: multimodal omics analysis framework. Genome Biology, 23, 42. doi:10.1186/s13059-021-02577-8
- Wolf, F. A., Angerer, P., & Theis, F. J. (2018). SCANPY: large-scale single-cell gene expression data analysis. Genome Biology, 19, 15. doi:10.1186/s13059-017-1382-0
- Lopez, R., Regier, J., Cole, M. B., Jordan, M. I., & Yosef, N. (2018). Deep generative modeling for single-cell transcriptomics. Nature Methods, 15(12), 1053–1058. doi:10.1038/s41592-018-0229-2
- Ashuach, T., Gabitto, M. I., Koodli, R. V., et al. (2023). MultiVI: deep generative model for the integration of multimodal data. Nature Methods, 20(8), 1222–1231. doi:10.1038/s41592-023-01909-9
- Wolock, S. L., Lopez, R., & Klein, A. M. (2019). Scrublet: Computational Identification of Cell Doublets in Single-Cell Transcriptomic Data. Cell Systems, 8(4), 281–291. doi:10.1016/j.cels.2018.11.005
- Buenrostro, J. D., Giresi, P. G., Zaba, L. C., Chang, H. Y., & Greenleaf, W. J. (2013). Transposition of native chromatin for fast and sensitive epigenomic profiling of open chromatin, DNA-binding proteins and nucleosome position. Nature Methods, 10(12), 1213–1218. doi:10.1038/nmeth.2688
- Cusanovich, D. A., Daza, R., Adey, A., et al. (2015). Multiplex single-cell profiling of chromatin accessibility by combinatorial cellular indexing. Science, 348(6237), 910–914. doi:10.1126/science.aab1601
- Zhang, K., Zemke, N. R., Armand, E. J., & Ren, B. (2024). A fast, scalable and versatile tool for analysis of single-cell omics data. Nature Methods, 21(2), 217–227. doi:10.1038/s41592-023-02139-9
- Stuart, T., Srivastava, A., Madad, S., Lareau, C. A., & Satija, R. (2021). Single-cell chromatin state analysis with Signac. Nature Methods, 18(11), 1333–1341. doi:10.1038/s41592-021-01282-5
- Granja, J. M., Corces, M. R., Pierce, S. E., et al. (2021). ArchR is a scalable software package for integrative single-cell chromatin accessibility analysis. Nature Genetics, 53(3), 403–411. doi:10.1038/s41588-021-00790-6
- Zhang, Y., Liu, T., Meyer, C. A., et al. (2008). Model-based Analysis of ChIP-Seq (MACS). Genome Biology, 9(9), R137. doi:10.1186/gb-2008-9-9-r137
- Thibodeau, A., Eroglu, A., McGinnis, C. S., et al. (2021). AMULET: a novel read count-based method for effective multiplet detection from single nucleus ATAC-seq data. Genome Biology, 22, 252. doi:10.1186/s13059-021-02469-x


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